安養院のツツジ

古都写真家・原田寛さんの鎌倉さんぽ【第2弾】

鎌倉で北条氏ゆかりの地を巡る!【安養院~東勝寺橋~宝戒寺】

鎌倉在住・古都写真家の原田寛さんとのおさんぽ第二弾。今回は、鎌倉幕府の執権となり栄華を極め、鮮やかに散っていった北条氏、その軌跡をたどるのに欠かせない鎌倉のスポットをご紹介します。

ナビゲーター紹介:古都写真家・原田寛さん

1948年生まれ、鎌倉市在住。鎌倉の歴史と文化、自然の撮影をライフワークとし、‟古都グラファー“の異名を持つ。写真集『鎌倉』、『鎌倉Ⅱ』、『鎌倉長谷寺』、『古都櫻』、写文集に『古都の写し方入門』、『鎌倉の古道と仏像』、『鎌倉の古寺』、『鎌倉花手帳』、『鎌倉のまつり・行事小事典』、『鎌倉謎解き街歩き』など多数。日本写真家協会会員、鎌倉ペンクラブ会員。

鎌倉プリンスホテルにて、鎌倉殿の13人にちなんだ写真展を公開中

▲古都写真家・原田寛さん

【安養院】北条執権政治の基盤を支えた、北条政子ゆかりの寺

鎌倉駅付近でも神社仏閣が集まり、情緒あふれる大町エリア。名刹を巡って散策を楽しむ人も多いのではないでしょうか。中でも【安養院(あんよういん)】は、北条政子の法名が付けられた政子ゆかりの寺として知られています。

▲安養院は、北条政子が夫の源頼朝のために建てた長楽寺が前身だと言われる

頼朝の死後、北条執権政治の基盤を支え続け、尼将軍と呼ばれた政子。北条氏を語る上では欠かせない人物です。「テレビなどの映像で見る有名な政子像は、安養院の本堂に安置されていますよ」と、原田さんが案内してくれます。

▲安養院本堂の政子像。境内には政子の供養塔もひっそりと佇む

▲本堂には美しい千手観音像も。頼朝と政子の結婚にちなんで、良縁のお参りも盛ん

頼朝が北条氏を筆頭に坂東武者を従え旗上げした経緯を思えば、政子との結婚は、武士の世の到来に欠かせないものだったのかもしれません。政子像を前に、様々な想像が広がります。
さらに原田さんから、「安養院は『つつじ寺』と呼ばれるほど、つつじの名所。寺院の山門前から境内まで鮮やかな色に染まる、鎌倉の初夏の風物詩です」と教えてもらいました。

▲鎌倉・大町の一角を染める安養院のオオムラサキツツジ

寺院一帯に燃え上がるように咲く大ぶりの花は、武士の世という新時代の活気や、尼将軍・政子の風格を彷彿とさせるようです。時に厳しい選択を迫られながらも困難に立ち向かった政子の情熱やパワーは、現代の女性にも力を与えてくれるのではないでしょうか。

【東勝寺跡・東勝寺橋】北条氏と鎌倉幕府の滅びの舞台

安養院から小町大路を15分ほど歩くうちに、車通りも少ない静かな住宅街へ辿り着きました。向かうのは、北条一族・郎党が最期を遂げた【東勝寺跡(とうしょうじあと)】です。鎌倉幕府の幕開けとなる『鎌倉殿の13人』の時代から時は過ぎ、1333年にはついに北条氏の時代も終焉を迎えることに。

東勝寺は、北条一族の菩提寺として建立されたお寺でした。しかし、後醍醐天皇の倒幕軍である新田義貞に攻められた際、この寺に立てこもり火を放ったため、当時の建物はもう残っていません。

▲今では草地となっている東勝寺旧跡の石碑から諸行無常を思う。奥には、一族郎党を供養する腹切りやぐらがある(※現在は立ち入り禁止)

また、東勝寺跡へ続く【東勝寺橋(とうしょうじばし)】のたもとには、北条氏に仕えた青砥藤綱という武将の旧跡の碑があります。「橋を渡る際、滑川に銭10文を落とし、それを探すのに50文を投じた逸話が有名。これを損と捉えないところが話のツボなんです」と原田さん。「当時のお金は中国から輸入し、流通量が限られた貴重なものだった。だから、川に沈んだままでは永遠の損失になる。夜の川を照らす松明に使った50文で商人も儲かるなら、その方が世の中には利益が大きいと考えたんです。」

なんとも深い洞察力ですね! 全盛期の北条氏の下には多くの優れた人物が集まり、文化も栄えたことでしょう。盛者必衰という歴史の流れを強く感じさせる場所です。

▲青砥藤綱が銭を落としたと伝わる【滑川(なめりかわ)】。鎌倉幕府在りし頃の東勝寺橋付近は、きっと往来も盛んだったのではないでしょうか

現在の東勝寺橋は1924年に建設されたもので、大正当時の様式を残す希少なアーチ橋として、鎌倉市の景観重要建築物等に指定されています。付近は新緑と紅葉の撮影スポットとしても有名なのだとか。鎌倉幕府終焉の地は、今は緑に包まれ、せせらぎの音がただ静かに響いています。

▲東勝寺橋のアーチと、川面に映る新緑が絵画のような一枚。滑りやすい場所もあるので足元には要注意

【宝戒寺】かつての権勢を忍ぶ、北条執権屋敷跡

東勝寺跡から鶴岡八幡宮方面へ小町大路を5分ほど進むと、右手に見えてくるのが宝戒寺。北条氏を滅ぼした後醍醐天皇が、その霊を弔うために建てた天台宗のお寺です。なぜ、敵だった後醍醐天皇が......? 原田さんに聞くと、「当時は滅ぼした後にその相手を恐れ、慰霊する文化がありました」と教えてくれました。こういった思想は明治時代頃まで続いていたようです。

▲宝戒寺本堂右手には德崇大権現社や、自刃した最後の得宗・北条高時の像があり、現代でも5月22日には北条氏鎮魂の「德崇大権現会」「大般若経転読会」が行われる

▲ご本尊は国の重要文化財である、子育て経読み延命地蔵。毘沙門天は鎌倉七福神のひとつとして有名

この地は『鎌倉殿の13人』に登場する北条義時以降、歴代の執権屋敷跡であったと言われています。鎌倉幕府、鶴岡八幡宮のすぐ側に屋敷を構えていた北条氏。「今で言うなら、丸の内みたいな場所です」と原田さん。なんと丸の内在住! 執権としての当時の権勢が感じられますね。

そして、宝戒寺と言えば、季節ごとに咲く花が美しく、特に秋の萩が有名。「萩寺」とも呼ばれる古刹です。「溢れるような萩の白さが、慰霊を感じさせます。枝垂れ梅や彼岸花も白が多いですし、花の色も鎮魂を意識しているのかもしれないなど、色々想像してしまいますね」と原田さん。

▲宝戒寺の白萩は秋のお彼岸頃が見頃。「夏には百日紅も見事ですよ」と、原田さんもおすすめの花の名所

坂東武者の世を夢見て、鎌倉の地で150年以上熱い思いを貫いた北条氏。美しく咲く白い花々は、北条氏の白いのぼり旗のように今でも誇り高く風に揺れています。

※掲載情報は2022年3月末時点のものであり、変更になる場合がございます。

取材・文 二木薫
写真 原田寛