江ノ電の車内から見える茅葺き屋根の山門が印象的な極楽寺は鎌倉幕府2代執権北条義時の三男、北条重時(しげとき)が開基となり、のちに忍性上人(にんしょうしょうにん)が開山として迎えられました。
忍性上人は境内に施薬院、悲田院などの病に苦しむ人々を救護するための施設を設けるなど多くの慈善事業を行ったことから医王如来(いおうにょらい)と崇められていました。現在でも境内には忍性上人が使用したと伝わる「製薬鉢」「千服茶臼」が残り往時を偲ぶことができます。
山門から本堂まで続く参道の桜が見事で、初夏の山門前に咲くあじさい、枝ぶりが見事な夏の百日紅など季節ごとに花が彩ります。
鎌倉唯一の真言律宗の寺院で、ご本尊は木造釈迦如来立像です。如意輪観世音菩薩を祀り、鎌倉三十三観音霊場の二十二番札所にもなっています。忍性のお墓(五輪塔)がある奥の院は、毎年4月7、8日のみ公開されます。
開基の北条重時(1198-1261)は、鎌倉幕府の二代執権北条義時の三男、三代執権北条泰時の弟です。源実朝亡き後の武家政権、鎌倉幕府の難しい舵取りを担った泰時を都から支え続けました。
朝廷をはじめ、西国の荘園や武士らの監視的な役割を担った六波羅探題北方の最高責任者として1230年から17年間勤めました。鎌倉から離れた都の地で、朝廷や周辺の警護、武士のもめごとの解決に関わり続けた重時は、それまでの貴族的な律令では、庶民が安心した生活を営むことの難しさを実感していたことでしょう。それと呼応するかのように、泰時は武士社会の健全な常識「道理」を基準とした、新しい基本法典「御成敗式目」を制定(1232)し、合議制とした政権運営を推進します。
五代執権の北条時頼の要請を受け、鎌倉へ戻った重時は、執権に次ぐポストであった連署として活躍していましたが、出家し1259年に自らの屋敷があった場所に極楽寺を創建します。
重時が六波羅探題に赴任していた頃、奈良の西大寺では、「興法利生」を掲げ、戒律振興や救貧施療などの活動を積極的に行う叡尊上人(1201-1290)が、衰えていた寺勢を復興させています。重時は、西大寺・叡尊上人の活動から、政治とは異なる庶民との関わりのあり方を学んでいたのではないでしょうか。
その叡尊上人の元で修行を重ね、後に各地で活躍したのが忍性(1217-1303)です。極楽寺開山に招かれ、極楽寺でも、病人や貧民救済に尽力しました。また橋や道路を作るなどの土木事業も多く手掛けたと言われています。
忍性と重時の二人の息子、長時と業時の3人が力を合わせ、戒律を重んじた僧の育成と布教、そして社会的な事業に励むことで極楽寺は発展します。室町時代に描かれた絵図では、金堂や講堂などの7つの伽藍と多くの支院を数える鎌倉を代表する寺院だったことが分かります。
関東大震災により倒壊し、直後に再建された本堂。毎月24日はお地蔵様の日、28日はお不動様の日として14時から法要があります。(8月、12月は除く)
鎌倉三十三観音霊場の二十二番札所。如意輪観世音菩薩が祀られています。
本堂の手前右手にある大きな転法輪殿には、ご本尊の木造釈迦如来立像や木造釈迦如来坐像などの重要文化財でもある寺宝が収蔵されています。宝物館(拝観料300円)は春期4月25日~5月25日、秋期10月25日~11月25日の火、木、土、日曜の10時~16時に一般公開されます。雨天時は休館となります。(ご本尊は毎年4月7、8日のみ。ご焼香料700円)
病人救済にためにお茶や薬草をひいた石臼や薬を調合したすり鉢を見ることができます。
木造釈迦如来立像(重要文化財)
木造釈迦如来坐像(重要文化財)
木造十大弟子立像(重要文化財)
木造不動明王坐像(重要文化財)
密教法具(重要文化財)
木造文殊菩薩坐像 など
▲本堂に続く参道のソメイヨシノ(3月下旬~4月上旬ごろ)
本堂へのお参りを済ませてから、御朱印をお願いしましょう。本堂左手にご朱印所があります。御守やおみくじを求めることもできます。
・駐輪場 なし
・駐車場 なし 近隣のコインパーキングなどをご利用ください。
・公衆トイレ 境内にあります。
・車いす用スロープ なし