建長寺の歩き方

鎌倉五山第一位の「建長寺」とは。

日本で最初の本格的禅宗寺院「建長寺」をじっくりと紹介します。

建長寺の始まり

鎌倉駅から江ノ電バスに乗車すること約10分「建長寺」で下車、もしくはJR北鎌倉駅から徒歩で約15分の位置に建長寺があります。
今回は、鎌倉五山第一位に列せられ、鎌倉の寺院の中でも有数の規模を誇る大寺院、建長寺に注目し詳しくご案内します。


現在、建長寺が位置する場所はもともと「地獄谷」と呼ばれる罪人の処刑場になっており、地獄に落ちた人々を救済する地蔵菩薩をご本尊とする心平寺という仏堂が建っていたと伝えられています。

建長寺の開基(※)は、2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公、北条義時のひ孫にあたる鎌倉幕府第5代執権の北条時頼(ほうじょうときより)です。
北条時頼は主君に何かあれば、すぐにも駆けつける武士道精神を表す「いざ、鎌倉」という言葉の由来である謡曲「鉢の木」にも登場し、善政を敷いた名君として知られています。
その時頼は心平寺を移設したあと、1253(建長5)年に建長寺を創建しました。


(※) 開基: 禅宗寺院で、創建するための資財を提供した人。「大檀那(だいだんな)」とも言う。

北条時頼坐像 ©︎鎌倉国宝館  ※2023年7月22日~9月10日まで開催される特別展「大正地震100年・元禄地震320年 2つの関東大震災と鎌倉」でご覧いただけます。

中国(宋)の禅僧だった蘭渓道隆は13歳で出家したあと、日本の臨済宗の開祖となる栄西(えいさい)や、曹洞宗を開いた道元(どうげん)が中国に留学した際に修行した天童山に身を寄せることになりました。
そこで日本からの渡来僧と交流していく中で純粋な中国の禅を伝えることを決意し、1246(寛元4)年、33歳の時に貿易船で海を渡り博多や京都、そして鎌倉の寿福寺に寓します。
そこに時頼が訪ね道隆に会ったところ、その人柄に惚れ込み最初は大船の常楽寺の住持(※1)として迎え、続いて建長寺の開山(※2)として招くことになりました。
その後、京都の建仁寺の住持となり、朝廷の天皇や多くの公家たちに帰依され、3年後には鎌倉に戻ります。
鎌倉でも京都でも重用された道隆は、京都の朝廷側と組んで倒幕を企てているという讒言や、当時、蒙古(元)から隷属を要求する使者が度々訪れていたことから、中国人である道隆にスパイの嫌疑が掛けられ、甲州や奥州の松島、伊豆国など度々追放されましたが、弛むことなく禅を興隆に努めました。
後に冤罪は晴れ、時の執権北条時頼に迎えられ鎌倉に戻り、寿福寺や建長寺で過ごし、66歳で亡くなります。

これらの功績から道隆は亀山上皇より日本で最初の禅師号として「大覚禅師」が贈られることになりました。

なお、三門と仏殿の間の樹齢約750年と推定される巨木の柏槇(ビャクシン)は蘭渓道隆によって宋から持参した種を植えられたものと伝わっています。


(※1)住持:寺院のトップ「住職」と同義。
(※2)開山:寺院を開創した僧侶(初代の住持職)

国宝「蘭渓道隆像」 ©️建長寺

三つの悟りの先に・・・。 【三門】

お寺の門は一般的には「山門(さんもん)」と呼ばれますが、こちらの門をはじめ禅宗の寺院では「三門」と書きます。
これは「空(全てを空と悟る)」「無相(全てに差別のないことを悟る)」「無作(自然のままであることを悟る)、という三つの解脱を指し「三解脱門」を略しているものです。
国の重要文化財に指定された三門には、後深草天皇の宸筆と伝わる建長寺の正式名称「建長興国禅寺」の額が掲げられています。

荘厳な三門「建長寺の顔」です。

あの名句と建長寺の深い関係【鐘楼】

鐘楼に掛かる梵鐘は、北条時頼がスポンサーとなり、開山の蘭渓道隆が鐘の銘文を撰したもので、数少ない建長寺創建時を知る貴重な品です。

この鐘楼が夏目漱石や正岡子規のあの名句と深い関係があるのをご存知でしょうか。
2人の動きを時系列で紹介します。

1888(明治21)年9月
漱石と子規は第一高等中学校本科第一部(文科)に入学。翌年1月ごろから交流を深める。

1894(明治27)年12月〜1月
知人の紹介により、ノイローゼを患っていた漱石が建長寺近くの円覚寺の塔頭の一つ帰源院へ参禅。

1895(明治28)年4月
漱石が愛媛県松山の松山中学に英語教師として赴任。

1895(明治28)年5月26日
漱石が子規宛に俳句仲間になることを希望する手紙を送り、のちには「愚陀仏」と号し、子規が上京した際には句稿を送り評価を求める。

1895(明治28)年8月25日
子規が松山へ帰郷。27日からは漱石が住んだ家の一階に子規を迎え「愚陀仏庵」と名付け、52日間同居する。

1895(明治28)年9月6日
夏目漱石が「海南新聞」にて
「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」の俳句を発表

1895(明治28)年11月8日
正岡子規が同じ「海南新聞」にて「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
の俳句を発表。

この一連の流れを見ると、誰もが知る子規を代表する名句が、漱石の建長寺の鐘を題材にした一句が無ければを生まれなかったかもしれないことがお分かりいただけたのではないでしょうか。

▲梵鐘は国宝に指定されています。

ご本尊の他にも隠れた見所が・・・。【仏殿】

「仏殿」とはご本尊を安置する建物のことで、こちらのご本尊である地蔵菩薩を安置しており、国の重要文化財に指定されています。

現在の仏殿は、東京タワーの麓、芝公園に隣接する増上寺にあったものです。信長の姪で江、小督 、江与として知られる幕府二代将軍徳川秀忠の夫人、崇源院(すうげんいん)の霊屋(れいおく)として建てられましたが、夫人の没後20年の際に建て替えることになり、建長寺に移築されました。
天井の格子には一つ一つ金箔を下地に鳳凰が描かれており、欄間の透かし彫りの彩色も残る様子は、同時期に造営された日光東照宮などの社殿建築を彷彿させる豪華絢爛で、隠れた注目ポイントです。

▲堂内の柱は漆塗りで仕上げられています。

禅宗寺院のご本尊は釈迦如来や毘盧遮那仏が多いのですが、前掲にある通り「地獄谷」と呼ばれる刑場跡に創建された経緯もあり地蔵菩薩が本尊とされたようです。
現在の地蔵菩薩坐像は室町時代の作とされ、衣の袖や裾を垂らす「法衣垂下(ほうえすいか)」という当時鎌倉地方で流行した独特なデザインで造られています。

▲ご本尊の頭上は格式の高さを示す「折り上げ格天井」という作りになっています。

仏殿の向かって右側には「伽藍神(がらんじん)」と呼ばれる中国の道教に由来するお寺を護る5軀の神像が安置されています。
「伽藍神」は宋(中国)の影響を受けて禅宗や泉涌寺(せんにゅうじ)系律宗の寺院などで造立された寺院を守護する神で道教の道士が着る衣服と冠を着用しています。

創建後の建長寺境内は、開山の蘭渓道隆をはじめとした、中国から来日した僧や中国風の禅を学ぶ修行僧たちが、日常的に中国語が飛び交わす国際的な空間だったようです。

▲宋風の独特な雰囲気の伽藍神

なお、境内の方丈前の「唐門(からもん)」(国指定重要文化財)は、増上寺にあった崇源院の霊屋と同時に唐門を移築したもので、彫刻や装飾金具など仏殿と似た技法で作られています。

▲唐門は2009(平成21)年の修理によって創建当時のきらびやかな姿に戻されました。

龍が護るお堂【法堂】

「法堂」とは住職が修行者たちに説法をするお堂を指します。鎌倉や京都などの禅宗寺院の法堂の天井には仏法を守護し、水の神でもある龍が雲の合間を飛ぶ姿が描かれていることが多くあります。
これは、住職が説法を行うことで「雨が降るように仏法の教えをあまねく伝える」という意味と、木造の寺院建築は落雷など、火災によって焼失しないよう火災避けのために描かれたものです。

▲法堂は関東地方最大級のお堂です。

建長寺法堂の天井には鎌倉在住だった日本画家の小泉淳作氏が制作した雲龍図を2000年に制作、2003年に奉納されました。
なお、小泉氏は翌年2001年に建長寺開山の蘭渓道隆が住持をつとめた京都建仁寺の法堂に双龍図を制作し奉納されています。

建長寺ではこの雲龍図にあやかり、マグネットタイプの火除のお守りが授与されていますので、ご自宅のキッチンなど防火対策にいかがですか?

▲丸く縁取られた雲龍図とワッペン型のお守りが完全一致!

【龍王殿(方丈)と庭園】

「方丈」とは「維摩経(ゆいまきょう)」という経典の登場人物、維摩居士が1丈四方(3.03m×3.03m)の部屋に住んだことから転じて禅宗寺院の住職の居間を指します。
建長寺では毎週金・土曜日に「龍王殿」とも呼ばれる「方丈」にて一般の方向けの坐禅会が開催しています。(休会や変更される場合がありますので公式HPでご確認ください)
また、方丈の裏手には蘭渓道隆が原形を作庭したとされる庭園があり、多くの参拝者が廻り縁に置かれた椅子に座り、禅の世界を表現する庭園を鑑賞されています。

▲国指定名勝の方丈庭園

塔頭とは【妙高院】

鎌倉や京都にある大きな禅宗寺院をお参りすると、「⚫︎⚫︎院」といった建物を目にする機会があるかと思います。これらは「塔頭(たっちゅう)」と呼ばれ、高僧や住持が引退する際には隠居する小規模の寺院を作り、亡くなるとにお墓を建て、弟子や家族が維持するようになったものです。

もともと師弟関係を重要視する禅宗では師匠である高僧が亡くなると弟子たちが塔(とう:墓所のこと)の頭(ほとり)に塔所(とうじょ:寮舎のこと)を構え、塔を守っていたことから「塔頭」といわれるようになりました。

建長寺にはこの「塔頭」が最盛期には49、現在でも12を数えます。

▲塔頭の一つ「妙高院」

作家と建築家の想い【虫塚】

「虫塚」は「バカの壁」の著作で知られる解剖学者の養老孟司さんが、標本にしてきた昆虫たちを供養しつつ、生命の尊さを伝える虫塚を作ることを発案しました。
そこに現在鎌倉市内にある同じ学校のOBで、新国立競技場などの設計で知られる隈研吾さんが共鳴して設計されたものです。
なお、虫塚が完成してから、毎年6月4日は「虫の日」として虫塚の前で「虫供養」が執り行われるようになりました。

虫塚のどこかに虫の妖精がただずんでいますので探してみてはいかがでしょうか。

▲養老さんの別荘を飾っていたゾウムシの石像と、隈さんが設計した虫かごをイメージしたオブジェ

建長寺の「奥の院」【半僧坊】

境内の最奥部、石段を250段登った先に建長寺の鎮守さま「半僧坊(はんそうぼう)」があります。

この半僧坊には仏や菩薩が日本の神様に化身したとされる権現の一つである「半僧坊権現」が祀られており、大天狗や烏天狗が岩場に立ち並ぶ様子は、今まで参拝していた境内とは全く異なる印象を受けることでしょう。

半僧坊本殿の前からは禅宗寺院でよく見られる縦に諸堂が立ち並ぶ様子や相模湾、そして天気の良い日には富士山までもが見渡せる絶景が広がります。

▲神さまの半僧坊権現を祀るため、鳥居があります。

▲250段の階段が続きます。

▲半僧坊本殿の間近の崖には大天狗や烏天狗が我々を迎えます。

▲縦に並ぶ麓のお堂の配置は禅宗寺院に見られる様式のものです。

お参りの後は証の御朱印を。

建長寺には総門をくぐると左手に朱印所があり、こちらではご本尊の「南無地蔵尊」をはじめ、「南無釈迦牟尼佛」「千手観音」「賓頭盧尊者」「心平地蔵尊」「済田地蔵尊」の御朱印を拝受できます。

また、半蔵坊の拝観受付まで向かうと「半蔵坊大権現」と「勝上嶽地蔵尊」の御朱印を拝受できます。

左「南無地蔵尊」・右「半蔵坊大権現」

続いて、切り絵と合わせて人気なのが見開きサイズの御朱印をご紹介します。

半僧坊の拝観受付では、いつでも拝受できる半蔵坊権現の姿が描かれたものや、大天狗もしくは烏天狗が描かれたいずれかの御朱印が参拝日によって変わるもの、そしてあじさいなど季節に合わせた限定御朱印を拝受できます。

上左右:どちらかが用意されている御朱印・下左:いつでも拝受できる御朱印・下右:あじさいや桜、紅葉などの季節限定で授与できる御朱印

最近は各寺社で切り絵御朱印を授与していますが、建長寺の塔頭の一つ「妙高院」では、あじさいや萩、紅葉など季節限定の精密な切り絵が美しい御朱印を授与されています。

左:あじさい 右:萩

建長寺広報担当 浅井さんの「オススメ」を伺いました。

建長寺広報のご担当の浅井さんに、広大な境内の中でもオススメの場所を一つ挙げていただくよう伺ったところ「三門の下に並ぶ椅子」を挙げていただきました。

浅井さん曰く、こちらは、三門の下を通り抜ける風や鳥の鳴き声など谷戸に包まれた自然を体感できる場所で、毎週土曜日の11:00と13:00には15分ほどの法話も拝聴することができますよ、と言うことでした。

▲「撫で仏」として知られる「おびんずるさま」もいらっしゃいます。

続いて数あるお守りの中でオススメのお守りについて伺ったところ、ご本尊の地蔵菩薩を自分で彫り、お守り袋に入れるようキットになっている「お守り地蔵 建長寺ver.」をご紹介いただきました。

お地蔵さまは既に輪郭はできているため、表情を掘り上げるだけで簡単に完成します。心を込めて作ったお守りには、より愛着が湧くのではないでしょうか。

完成したお守り袋に収納するお地蔵さま ©️建長寺

▲お守りはキットとして用意されています。

お土産についてもオススメを伺ったところ、
国宝の梵鐘をかたどった「梵鐘サブレー」をご紹介いただきました。

鎌倉にはあの有名なサブレーをはじめとして、数々のサブレーが販売されていますが、建長寺でのみ販売される「梵鐘サブレー」は程よい甘さや薄さなどの理由で大変好評だそうで、是非とも食べてください、とのことでした。

▲包装紙には、禅の教えの中で悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現した「円相」が描かれています。

これから建長寺を参拝されると言う方も、既に参拝された方も、この記事をご覧になることで時代背景や見過ごしてしまいがちなポイントを知っていただくと新たな視点で理解していただくきっかけになっていただけると良いですね。

【取材・文】岡林 渉