武士と「禅」の深い関係

「禅」を心で学び、体で感じ取ろう

武士の都「鎌倉」は日本で最初に禅宗文化が開花しました。今回はその背景をご案内します。

「禅」を知る

鎌倉の谷戸では桜が散り、目にも優しい新緑に包まれています。
谷戸に包まれるようにして建つ、寺院で坐禅を組んでいると最初は小鳥のさえずりや風の音が耳から入ってきますが、しばらくすると精神が研ぎ澄まされ「無」の境地に達します。

また、新型コロナ感染症の流行も次第に落ち着き、昨今では江の島・鎌倉にも海外からのインバウンドのお客さまが訪ねており、坐禅会にも多くの方が参加されているようです。

我々が日々利用するiPhoneなどアップルの製品群の無駄を省いたシンプルなデザインは、アップルの創始者スティーブ・ジョブスがシンプルであることを目指す「禅」の思想を学んでいた影響だったとされていたり、欧米を中心としたグローバル企業で、集中力を高めたりリラックス効果を求めて「マインドフルネス」と呼ばれる瞑想法を採用してオフィスに瞑想空間を設置したり、社内研修のプログラムに取り入れていることも「禅」の影響と見る人もいます。

「禅」は、古代サンスクリット語の「ディヤーナ:外界からの妨げなしに精神集中が可能になる状態」を漢字に音訳した「禅那(ぜんな)」の略で、禅那の行を坐して行う修行を坐禅といいます。

仏教の開祖である釈迦は29歳で出家したあと、断食と坐禅の日々を送り、35歳の時に菩提樹の下で悟りを得ました。
「禅」はこの釈迦が得た悟りとは何なのかを自分で知るために釈迦と同じような苦行を行こなうことで自分の中にいる仏に気づくことをめざしています。

宗教としての「禅宗」は、インドから梁・北魏(中国)に渡った仏教僧、達磨(だるま)大師が少林寺の慧可《えか》という中国僧に法を伝えたこと始まります。
「だるま」と言うと病気や災難を防ぐ縁起物として飾られる赤く塗られた人形を思い出す方が多いかと思いますが、実は達磨大師が坐禅を組んでいる姿をあらわしているものなのです。

「禅宗」は鎌倉時代に宋(中国)から臨済宗を栄西が、道元が曹洞宗を日本へ伝えます。そして江戸時代になると、清(中国)から来日した隠元が黄檗(おうばく)宗を開きます。

茶道の千利休、能楽の世阿弥は禅を学び、水墨画で知られる雪舟も禅僧でした。
このように「禅」の教えは現在にも引き継がれている日本の伝統文化に大きな影響を与えており、根底にある「わびさび」の美意識は禅の教えから発展したと言われています。

▲建長寺法堂に安置されている釈迦苦行像は、釈迦が苦行・禁欲(断食)をしている姿を現したガンダーラ仏の模造です。

武士と「禅」

日本の臨済宗の開祖とされる「栄西禅師(えいさいぜんじ)」は、もともと比叡山延暦寺で天台密教を学んでおり、密教を極めるために2度宋(中国)へ渡航します。
1度目は天台山万年寺で密教と共に禅の要旨を学び、帰国後は九州などに滞在して研究に努めます。
2度目には宋で師事した虚庵懐敞(こあんえしょう)に従い、唐時代から禅寺が開かれていた天童山で臨済宗の禅を本格的に学び、帰国後は臨済禅を布教すべく九州を経て上京しましたが比叡山など仏教の旧勢力から弾圧にあい、やむを得ず九州へ戻ります。
再び上京し1198年(建久9)京都で『興禅護国論』を著しますが、新天地を求め翌1199年に都から鎌倉に下向すると将軍や幕府に歓待され、1202年(建仁2)には北条政子(ほうじょうまさこ)は栄西のために寿福寺を建てて住持として迎えました。
1202(建仁2)年には、北条政子の息子で2代将軍となった源頼家(みなもとのよりいえ)の保護のもと、真言(しんごん)、止観(しかん)、禅の三教の道場として建仁寺を開創します。

その後、鎌倉幕府の5代執権北条時頼は蘭渓道隆を中国から招き、日本で最初に「禅寺」として臨済禅のみを修行する専門道場を開創します。
時頼の息子で8代執権となる北条時宗は、無学祖元を招き円覚寺を創建します。

武士とは、自らが開墾した土地を守るために合戦において敵を殺めて生き残ることが宿命としてあり、いつ殺されるか分からず、いつその日を迎えるか覚悟しながら日々武芸の鍛錬を行い自らを高めていく生業でしたので、自らの鍛錬・実践によって心を鍛えるという教えの禅は、武士の気風に合っていたのでしょう。

時代は下り、戦国大名の武田晴信(信玄)は甲斐国(山梨県)長禅寺の禅僧「岐秀元伯(ぎしゅう げんぱく)」より教えを受け、出家した際には「機山信玄」の法号を与えています。
なお、甲斐国には長禅寺や東光寺、恵林寺など多くの禅宗寺院が創建され、禅宗文化が花開きますが、鎌倉時代に元(中国)から招かれ、建長寺を開山した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が、元寇に際し元(中国)のスパイだとする誹謗中傷を受けてしまい、甲州に配流されたことに由来しています。

他にも徳川家康は「竹千代(たけちよ)」と名乗っていた幼少時代に臨済寺の禅僧「太原雪斎(たいげんせっさい)に、伊達政宗は「梵天丸(ぼんてんまる)」と名乗っていた幼少時代に資福寺の禅僧「虎哉宗乙(こさいそういつ)」に薫陶を受けます。
なお、「虎哉宗乙」は「岐秀元伯(ぎしゅう げんぱく)」に師事しています。

このような別々のストーリーが、人々の縁によって一つの大きなストーリーとして繋がっていることを知るのが歴史を学ぶ醍醐味ではないでしょうか。


 

▲「日本で最初の本格的な禅寺」である建長寺の三門。

「禅」を体感する

鎌倉では建長寺をはじめ、円覚寺、報国寺、大船観音寺などの臨済宗・曹洞宗寺院で定期的に坐禅会を開催しています。

まずは坐禅を体験するにあたり、衣服はゆったりとしたものを選びましょう。
説明を伺いながら姿勢と呼吸の仕方を整えます。
坐禅というと棒で肩を叩かれることをイメージする方が多いと思いますが
これは「警覚策励(けいかくさくれい※)」を略して「警策(けいさく※)」と言います。
「警覚」とは注意、「策励」とは励ますという意味で、坐禅中の眠気を覚まし励ますことであり、
罰を与える訳ではありません。

鎌倉には座禅体験できるお寺がいくつもありますので、静かな空間で、日ごろの雑音を解放して心身を整える座禅を、ぜひ体験してみてください。

※臨済宗・黄檗宗では「けいさく」、曹洞宗は「きょうさく」と読みます。

【取材・文:岡林 渉】