「江の島道」を往く

江戸時代の大人気ルート「江の島道」
江ノ電のルーツとも言える「江の島道」を紹介します。

江ノ電のルーツ?「江の島道」

現在、江ノ電の鉄道線は藤沢から鎌倉を結んでいますが、もともとは1902(明治35)年、江戸時代に大人気だった江の島弁天へ参拝する「江の島詣」を行う人々の利用を見込み、藤沢から江ノ島までの区間を開業させたことに始まります。

江ノ電開通前の「江の島詣」を体感できる「江の島道」と呼ばれる道を旧藤沢宿周辺から目的地の江島神社まで紹介していきます。

「江の島道」の起点、旧藤沢宿周辺。

「江の島道」の起点となった藤沢のまちは、鎌倉時代に時宗の総本山である清浄光寺(遊行寺)が建立された頃から門前町として賑わってきました。

藤沢にはその後、1590(天正18)年に徳川家康が豊臣秀吉の命令により関東に国替えされたあと、政治的な地域支配の拠点と将軍専用の別荘施設として「御殿(ごてん)」が各地に整備されます。藤沢にもこの御殿が設置され、徳川家康は江の島や鎌倉を遊覧するため滞在しています。
一方、家康は1601(慶長6)年、東海道に宿駅伝馬制度を定め、江戸の日本橋から京の三条大橋を結ぶ五十三ある宿場の一つとして「藤沢宿」を整備しました。

泰平の世が続き、江戸中期になると江戸の庶民にも経済的な余裕が生まれ、お伊勢参りや大山詣りなど、信仰に基づく旅行が流行します。
特に「江の島詣(もうで)」は、江戸から江の島までの距離が13里(約51㎞)というほど近い位置にあり、往復で3泊4日の行程で、女性でも無理のない旅ができたこと、海に浮かぶ島という風光明媚な景色や新鮮な海産物を味わえること等が人気の理由としてあげられます。


「江の島道」の起点となる大鋸橋(遊行寺橋)付近から東海道から江の島道へ分岐した場所には江島神社の一の鳥居(※)が建てられ、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』をはじめ、藤沢宿の名物として多くの浮世絵作品に描かれました。
なお、現在では遊行寺境内の遊行寺宝物館前に土台として使われていた沓石(くついし)が残されています。


※現在、江の島の入口にある青銅の鳥居は江の島道における「三の鳥居」です。なお「二の鳥居」は洲鼻通り(すばなどおり)にありましたが、残念ながらこちらも現存していません。

▲現在でも藤沢橋交差点から遊行寺本堂の大きな屋根が眺められます。

▲境川に架かる大鋸橋や遊行寺と併せ、鳥居が描かれています。

▲遊行寺宝物館前に保存されている鳥居の沓石。

▲旧藤沢宿周辺のトランスボックスには浮世絵が紹介されており、QRコードから詳細情報を入手できます。

沿道に残る「みちしるべ」(その1 遊行寺ロータリー前)

遊行寺ロータリーの中に「ゑのしま道」「一切衆生」「二世安楽」と石に刻まれた「江の島弁財天道標(えのしまべんざいてん どうひょう)」と呼ばれる江島神社へ向かうためのみちしるべがあります。

江戸時代にはこの道標が「江の島道」沿いに48基あったとされています。
現在では撤去されたり、場所が移動されているものもありますが、当時の面影を色濃く残すものとして沿道の随所に保存されています。

▲江の島方面と藤沢駅北口方面へ向かう道が交わる場所に「江ノ島弁財天道標」が設置されています。

タダでは渡れなかった境川

「江の島道」は、現在の藤沢駅周辺を通り、砥上公園(いしがみこうえん)を抜け、境川の川岸に突き当たります。
当時はお金を払い、船橋(※)で境川を渡ったようです。(「渡し船」とする記録もあり)
なお、明治時代になると地元の豪農だった山本庄太郎が自費で橋を建設し通行料を徴収していた時期もあり、現在架かる橋は「山本橋」と名付けられています。

※船橋(ふなばし):川に浮いたたくさんの船を並べて、その上に板をかけ渡した橋

▲境川に架かる「山本橋」

沿道に残る「みちしるべ」(その2 片瀬小学校前)

「江の島道」は境川を渡ったあと、川の東側を進みますが、随所に「江の島弁財天道標」が保存されています。こちらの道標の三面にも遊行寺ロータリーにあったものと同様に「ゑのしま道」「一切衆生」「二世安楽」と、それぞれ刻まれています。
「一切衆生」「二世安楽」とは、誰もがこの世とあの世の二世にわたり安らかに暮らせますように、という願いを表しています。

▲遊行寺ロータリーの道標と同じ大きさのものです。

縁結びの神 上諏訪神社(片瀬諏訪神社 上社)

片瀬小学校前の道標をあとに道なり進むと「江の島道」は緩やかな坂道に掛かります。登り切ると、左手に片瀬諏訪神社 上社(上諏訪神社)の白い鳥居が建っています。

こちらの片瀬諏訪神社は奈良時代の723(養老7)年に信濃国の諏訪大社を勧請して創建されましたが、同様に勧請して創建された全国に5,000社近くある諏訪神社のうち、こちらの片瀬諏訪神社は上下両社が揃う大変珍しい神社です。
ご祭神は上社が「建御名方命(たてみなかたのみこと)」、下社が「八坂刀売命(やさかとめのみこと)」という、農耕や狩猟、漁業を守護する神様として信仰されてきましたが、最近では二柱(ふたはしら※)の神さまが夫婦であることから縁結びの神としても信仰されています。

なお、御朱印やお守りなどは徒歩約3分の場所に位置する下社の社務所にて授与していただけます。

※神道では神様を「⚪︎柱(⚪︎はしら)」と数えます。

▲階段を昇った高台からは相模湾に浮かぶ江の島の絶景が眺められます。

▲上下両社それぞれのお守りと夫婦であるご祭神にちなんだお守り

モンゴル出身の力士もお参りした常立寺

上諏訪神社を後に、しばらく道なりに江の島方面へ進むと左手に常立寺があります。
せっかくの機会なので日本史の教科書で登場した「元寇(げんこう)」と縁の深いにこちらのお寺にお参りしてみましょう。

常立寺の近くには鎌倉時代に龍ノ口(たつのくち)と呼ばれる現在の龍口寺周辺には罪人の処刑場があり、この寺周辺に埋葬されたと言われています。

当初は罪人の供養のために真言宗の回向院利生寺が創建されものの廃寺となっていましたが、1532(天文元)年、日蓮宗の僧日豪によって日蓮宗に改宗され、常立寺として再建されました。

早春に見事に咲き誇る紅白の枝垂れ梅が有名な境内

モンゴル帝国(元)・南宋・高麗連合軍による2度の日本侵攻は「元寇(げんこう)」や「蒙古襲来(もうこしゅうらい)」として知られています。
1274(文永11)年、1度目の侵攻「文永の役」の翌年にモンゴル人の杜世忠ら五人の国使が降伏の勧告のために派遣されたものの、執権北条時宗の命令により龍ノ口で処刑されました。
境内にある五輪塔は国使の供養塔と伝えられており、2005(平成17)年、当時の横綱朝青龍や白鵬らモンゴル出身の幕内・十両力士らが参拝し、モンゴルでは聖なる布とされるハダク(青い絹の布)を塚の五輪塔に巻いて弔いました。

▲モンゴルでは英雄を意味する青い布が巻かれた五輪塔

沿道に残る「みちしるべ」(その3 常立寺周辺)

こちらの道標は他のものとは異なり、「従是江嶋道」「左龍口道」「願主 江戸糀町」と刻まれています。
このことから龍口寺方面と江の島方面との分岐点であること、江戸糀町(現在の千代田区麹町)の講中(※)が設置したものであることがわかります。

(※)講中:こうじゅう。「江の島詣」をはじめ「お伊勢参り」や「大山詣」などの寺社への参詣が盛んになると、多額の旅費を捻出するするための共済組織が生まれます。旅費を講中の参加メンバーで積み立てを行い、 講の代表として順番に送り出す仕組みになっていました。

▲他のものとは異なった文字が刻まれた道標

行列のできる江の島⁉︎

現在、江の島へ行くためには人道用の「江の島弁天橋」もしくは車道用の「江の島大橋」を渡ることになりますが、江戸時代には橋は架けられておらず、1891年に初めて木製の橋が建設されるまでは、船に乗るか、肩車で担いでもらうかしか方法がありませんでした。
ただし陸続きになり歩いて渡ることができる日が時折あり、その日は特に賑わい、歌川広重が描いた浮世絵にも大挙して江の島をめざず群集が描かれています。

この陸続きになる現象は、海の波が沖から海岸に近い島のような障害物にぶつかると、海底の砂を運びながら回り込んで海岸方向へ進みます。
結果、砂が島と海岸の間に堆積し、陸繋砂州(りくけいさす。イタリア語でtombolo「トンボロ」)という地形を生み出します。
江の島の場合、砂州が常時海面上にまで露出するほどの砂の堆積量がないため、大きく潮が引くと姿を現すようになりました。

このような珍しい江の島の光景を描いたたくさんの浮世絵は、現代で言えばインスタグラムのようなビジュアルを通した発信力で江戸庶民の「江の島詣」の人気を支えた一つのツールであったと言っても間違いないでしょう。

これらの貴重な浮世絵をなんと無料で見学できる施設が東海道線辻堂駅北口から歩いて約5分の場所に位置する「藤沢市藤澤浮世絵館」です。
こちらで江戸時代の「映え(?)」浮世絵をご覧いただいた後に、今の江の島道と比較しながら散策すると、歩いた疲れも忘れてしまうかもしれませんね。

▲本土側から陸続きになった江の島を望む

▲江の島側から陸続きになった本土側を望む

▲こちらの浮世絵からも当時の「江の島詣」の人気ぶりが想像できますね。

▲葛飾北斎の『冨嶽三十六景 相州江の嶌』にもトンボロの様子が描かれています。

▲俯瞰するとトンボロの様子がよく分かります。(撮影協力:江の島ミントハウス )

願いはかなう・・・「江の島道」と杉山検校

今まで沿道の各所で見てきた「江の島弁財天道標」ですが、ほとんどは江戸時代前期に生きた「杉山検校(すぎやまけんぎょう※)」と呼ばれる「杉山和一(すぎやまわいち)」が寄進したものとされれています。

杉山和一が江の島弁天さまを篤く信仰するきっかけとなった逸話に登場する「福石」と呼ばれる石が江島神社の瑞心門と辺津宮の間の石段脇に残されています。

伊勢出身で視覚障害者だった和一は鍼術を志し江戸に上京したものの、上達せず失意のうち故郷に戻る途中に江の島に立ち寄りました。
江の島の岩屋は、平安時代の弘法大師をはじめ、鎌倉時代には北条政子の父、時政など多くの人々が参籠し、弁財天からのご神徳を受けたことでも知られており、和一もご神徳を求めてこの岩屋に21日間籠もります。満願の日(最終日)に岩屋からの帰路に、この石につまずき転んで気を失ってしまいました。
すると夢の中に弁財天さまが出現したため、手を合わせて拝もうとしたところ、チクチクと身体を刺すものを感じ取りました。気を取り戻した和一が手にとっていたのは松葉の入った竹の筒でした。
 
この体験をもとに和一は、細い管と針を組み合わせた施術法をひらめき、改めて江戸に戻り開業しました。
和一の施術法は、その便利さから江戸中で人気を博し、時の将軍徳川綱吉から呼び出されることになります。
和一は、綱吉の病を治したことで総録検校という検校の関東トップ地位を与えられました。

この逸話から「福石」は出世や心願成就のパワースポットとしても知られています。


※検校(けんぎょう):もともとは平安時代・鎌倉時代に荘園に配置された社寺や荘園の監督者の役職名でしたが、室町時代以降は視覚障害者の役人である「盲官」(盲人の役職)のトップを「検校」として呼ばれるようになりました。
視覚障害者の一部は鎌倉時代以降「平家物語」を琵琶で演奏することで知られていた琵琶法師や、箏曲、三弦など演奏や鍼灸などの職務に就いていました。

▲「福石」の周りには「江の島弁財天道標」や杉山検校像などが並びます。 ©️江島神社

「江の島弁天さま」の二つの性格

弁天様は、もともと「サラスヴァティ―」と呼ばれるヒンドゥー教の水や豊穣の女神でしたが、よどむことなく流れる川の流れのように話したり音楽を奏でることができるよう、知識や音楽など芸術の才能を司る神としての性格を持ちあわせるようになり漢訳では「弁才天」と呼ばれるようになりました。

その後、仏教に取り入れられ、『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』という経典の中では仏教の守護神とされ、戦勝の神としても位置付けされます。また、弁天さまに祈りを捧げると、願い事が叶い、財を成すことができるともされました。このことから「弁財天」とも呼ばれるようになります。

江島神社境内の奉安殿には鎌倉時代につくられた八本の腕に弓や矢などを持った戦勝の神さまという性格をもつ「八臂弁財天(はっぴべんざいてん)」と、二本の腕に琵琶を持った芸事などの才能の神さまの性格をもつ「妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)」という2体の弁天様が安置されています。

戦勝の神さまとして源頼朝が奥津宮に奉納した鳥居、才能の神さまとして江戸の歌舞伎の「市村座」や「中村座」の役者たちが中津宮に奉納した石灯籠に、それぞれの性格を信仰していた証として見ることができます。

▲中津宮前の江戸歌舞伎「中村座」が奉献した石灯籠

いざっ、江の島!

「江の島道」は藤沢橋交差点か付近から江島神社まで約7キロ、歩いて約二時間程度の距離であり、随所に当時を知ることができる遺構も残されていることから気軽に飽きることなく歩けるコースです。

藤沢から江の島まで、片道は現代風に江ノ電、残りの片道は江戸時代風に歩いてみるのも良いかもしれませんね。


【取材・文】岡林 渉