藤沢の人々に「遊行寺(ゆぎょうじ)」として親しまれている寺院ですが、正式名称は「藤澤山 無量光院 清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)」と言います。
遊行寺は鎌倉時代の正中2(1325)年、一遍上人(いっぺんしょうにん)によって開かれた時宗(じしゅう)における全国の総本山です。一遍上人から数えて4人目の「遊行上人」であり「藤沢上人(とうたくしょうにん)」の初代である呑海上人(どんかいしょうにん)は、弘法大師などの高僧たちが参籠した江の島岩屋で同じように参籠したところ、弁天さまより「大きな川が流れ、美しい蓮の花が咲く池のほとりに逗留するように」との御神託を受けました。その御神託に従い逗留した地は、兄である俣野五郎景平が地頭だったため寄進されることとなり、正中2年(1325)に創建されたとの言い伝えが残っています。
その後、藤沢は遊行寺へ参詣する人々を迎え入れるための宿屋や商業が立ち並ぶ門前町となり発展しました。
※「遊行上人」と「藤沢上人」:もともとは、一遍上人は、定住することなく全国を巡って布教を行なった(遊行)ことから「遊行上人」とよばれましたが、その志を継いで、同様に遊行を行う時衆のリーダーのことも「遊行上人」と言われるようになります。この「遊行上人」が、晩年になり遊行が困難になると「遊行上人」の肩書きを譲り「藤沢山(=遊行寺)」の住職として定住するようになり「藤沢上人(とうたくしょうにん)」と呼ばれるようになりました。
▲樹齢700年とも500年とも言われる大銀杏が印象的な遊行寺
平安時代中期の日本は戦乱・災害・疫病などによっての社会不安が広がっていました。
仏教では釈迦が亡くなったあと、しだいに仏教が衰え、1000年が経過すると釈迦の教えが正しく行われなくなり乱れた世の中「末法(まっぽう)」がやって来るという思想がありました。
日本では、1052(永承7)年に末法に入ったと信じられ、この末法の世から救われるために、阿弥陀仏(あみだぶつ)を思い浮かべ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と口に唱える「念仏(ねんぶつ)」によって極楽浄土に往生できるとする「浄土教」が大流行します。
この状況下で「市の聖(いちのひじり)」として民衆から知られていた空也上人(くうやしょうにん)は、太鼓や鉦(かね)などを打ち鳴らしながら念仏を唱えながら踊る「念仏踊り」を始めたと言われています。
一遍上人は(延応元)年(1239) に伊予国(愛媛県)の豪族の家に生まれました。
出家した後、修行と布教の旅を続け「念仏札」という念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願の舟に乗じて極楽浄土に往生できますよ、と安心してもらえるように作ったお札を配り歩きました。
従来より空也上人による「念仏踊り」という形態はありましたが、一遍上人は「念仏札」を配る際、より注目を集めるための演出形態としての「踊り念仏」を生み出したのです。
遊行寺には一遍上人の生涯におけるハイライトシーンを描いた国宝『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』と呼ばれる一遍上人の絵巻物が残されており、いくつかの「踊り念仏」のつながると思われるシーンを見つけることができます。
1279(弘安2)年、信濃国佐久郡小田切の里(現在の長野県佐久市)大井太郎という武士の館を訪れた際の様子が描かれています。
一遍は屋敷の縁側で赤い鉢をたたき、庭に築かれたお墓の前では弟子の僧侶たちも鉢をたたいて、僧侶だけでなく民衆も加え、踊りながら念仏を行うという様子が『一遍聖絵』に初めて登場します。
この段階では陰陽師が天皇や貴族などが出かける際に地面を踏みしめて邪気を払う「反閇(へんばい)」と呼ばれるおまじないに代わるものだったと考えられています。
▲『一遍聖絵』第四巻 第五段 屋敷の縁側で一遍上人が鉢をたたき、庭では僧尼たちが円になって回りながら踊る様子が描かれています。
一遍たちはその後も遊行の旅を続け、1282(弘安5)年には、市内で布教を行うべく鎌倉へ向かいます。
ところが、鎌倉市内へ入るための木戸があった小袋坂(現在の鎌倉市小袋谷付近)で武士に拒否されてしまいました。鎌倉の外であれば不問であると聞き、已む無く翌日片瀬へと移動することになりました。
▲一遍上人一行が馬上の白い装束を着た武士に制止させられている様子が描かれています(『一遍聖絵』第五巻 第五段 )
▲『一遍聖絵』に記載された「こふくろ坂」比定地の一つ「小袋谷(こぶくろや)」周辺
▲「こふくろ坂」のもう一つの比定地、建長寺近くの「巨福呂坂(こふくろさか)」周辺
鎌倉で布教をすることができなかった一遍たちは、片瀬浜にあった地蔵堂(現在の藤沢市片瀬)へ移動しました。
ここでは、今までは屋内や地面で踊られていた「念仏踊り」が「踊屋(おどりや)」と呼ばれるステージが登場し、舞台の上で僧尼披露する様子が描かれています。これが「踊り念仏」の始まりとなりました。
一遍上人が、鎌倉の近くで注目を集めることを、布教活動の中で重要視していた中で、視覚的な演出のここで行なった効果もあったのか、身分を問わず多くの人々がこの様子を見に訪れ、4ヶ月近くこちらに滞在しました。
この「踊屋」は、現在の盆踊りのステージによく似ていますよね。
▲一遍上人たちが屋根のついた踊屋で「踊念仏」を踊り、その様子を眺めている武士や僧たちが描かれています(『一遍聖絵』第六巻 第一段 )
その後、室町時代中期の慈照寺銀閣に代表される東山文化が栄える頃になると、盂蘭盆会など祖先を祀る仏教行事が定着するようになります。
一方、京の「町衆(まちしゅう)」を中心に「踊り念仏」から宗教的な要素を抜いた踊りが「風流踊り(ふりゅうおどり)」として発展しました。
これらの動きは江戸時代に全国に広まり、現在の盆踊りの源流のひとつになったと言われています。
「盆踊り」のゆかりの地となっている藤沢では、毎年7月に「藤沢宿・遊行の盆」が開催されています。
このイベントは藤沢の遊行寺に伝わる「踊り念仏」に着目し、盆踊りで地域の活性化を図るために2006(平成18)年から続いています。
全国各地で開催される「盆踊り」イベントの中でもゆかりの地藤沢ならではの特徴が「日本三大盆踊り」に数えられる「阿波踊り」「郡上踊り(ぐじょうおどり)」「西馬音内の盆踊り(にしもないのぼんおどり)」が一堂に会するすることでしょう。
「阿波踊り」というと「踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ 阿呆 なら踊らにゃ損々」というフレーズでご存知の方も多いかと思います。
阿波踊りのルーツは諸説あり、室町時代後期の1578(天正6)年、四国を長宗我部元親と争った武将、十河存保(そごうまさやす)が、京都から集団で笛・太鼓・鉦(かね)・鼓などの伴奏にあわせて踊る「風流踊(ふうりゅうおどり)」の芸能集団を招聘し、身分に関係なく観覧することを許したことから始まる、という説や、1586(天正14)年、阿波徳島藩の藩祖である蜂須賀家政が徳島城が築城された際、竣工を祝うために無礼講を許し、人々がに踊った、という説、そして踊り手と歌い手に分かれる「念仏踊り」や空也上人や一遍上人が修した自身で念仏を唱えながら踊る「踊念仏」から発展した、という説などがあります。
なお「藤沢宿・遊行の盆」では全国各地で開催される「阿波踊り」の中でも東京高円寺の朱雀連さんによって披露されます。
次の「郡上踊り」は、7〜9月にかけて30夜以上にわたり開催され、特に8月13日~16日までの4日間は徹夜で踊り明かす「徹夜おどり」が有名ですが、こちらも「念仏踊り」がルーツとされています。
「藤沢宿・遊行の盆」では岐阜県郡上市の郡上八幡からお囃子の方々をお迎えして披露され、観客も一緒になって踊ることができます。
最後に「西馬音内の盆踊り」のルーツについても諸説あり、鎌倉時代の正応年間(1288~93)に修行僧だった源親という修行僧が蔵王権現(現在の西馬音内御嶽神社)を勧請し、境内で豊作祈願として踊らせたものという説や、慶長6年(1601)に滅亡した西馬音内城主小野寺茂道一族を残された家臣たちが偲んで踊り始めたという説などが伝えられています。
「藤沢宿・遊行の盆」では秋田県羽後町西馬音内からお囃子の方々をお迎えし、端縫い衣裳や藍染浴衣に、編み笠や黒い彦三頭巾で顔を隠した踊り手さんとお囃子により幻想的な世界を披露します。
これら三つの「盆踊り」を観れる、踊れることが他の盆踊りイベントにはない「藤沢宿・遊行の盆」の魅力ということで紹介させていただきました。
全国各地でおこなわれている「盆踊り」の有力なルーツのゆかりの地、藤沢を紹介しました。
現在の盆踊り「藤沢宿・遊行の盆」は日本3大盆踊りも集結する熱いイベントです。
江の島・鎌倉エリアでは「遊行の盆」の他にも、いくつかの盆踊りイベントが開催されています。
浴衣姿で歩くのが様になるエリアですので、夏の風物詩も楽しんでください。
【取材・文】岡林 渉