人々はなぜ江の島を目指すのか。

【クーポン付き!】古今東西の人々を引き寄せる江の島の魅力とは?

連日、多くの観光客で賑わう江の島。
いつから、そしてなぜ江の島に人は集うのか歴史的視点からその背景を解説します。

古代日本のパワースポット「江の島岩屋」

江の島は江島神社の沿革を描いた『江島縁起』によると、552(欽明天皇13)年4月12日の夜から12日間大地が震動し、天女が弁財天の従者である十五童子を従えて現れ、龍神などの神々がを造った、と記しています。
また、江島神社の社伝では聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇の命令により 、江の島の岩屋に神様を祀った、としています。

▲第一岩屋の最深部に位置する江島神社発祥の地

江の島の岩屋に修験者の役小角(えんの おづぬ)が700(文武天皇4)年には修験道の霊場を開き、814(弘仁4)年には弘法大師(空海)が参籠(※)し「岩屋本宮(現在の奥津宮)」を創建、853(仁寿3)年には慈覚大師(円仁)が参籠し、「上之宮(現在の中津宮)」を創建したと「江島縁起」には記されています。
鎌倉時代には、この霊験あらたかな岩屋には建長寺の開山蘭渓道隆、日蓮宗の開祖日蓮、時宗の開祖一遍など多くの僧侶が参籠したとされ、鎌倉の鶴岡八幡宮寺(当時は神仏習合のため寺)が所管していました。

(※)参籠:寺社やなどに、一定の期間こもって祈願すること。おこもり。

▲海食崖(かいしょくがい)と呼ばれる切り立った崖に海食洞窟である「岩屋」があります。

源頼朝、そして北条時政の願い

1180(治承4)年源頼朝は伊豆で平氏打倒のため挙兵、石橋山の戦いで一度は敗れ安房へ敗走したものの、東国の武士たちを味方につけて挽回し、源氏ゆかりの地鎌倉に入りました。
鎌倉幕府の公式文書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」1182(寿永元)年、頼朝は、奥州平泉で栄華を極め、強大な勢力を誇った藤原秀衡の降伏祈願のために北条時政、足立遠元ら鎌倉武士47人を引き連れて江の島を訪れました。奥津宮に現在も残る石鳥居は、その時に奉納されたものと伝えられています 。
なお、辺津宮の境内に位置する奉安殿 に祀られている八臂弁財天(はっぴべんざいてん)は、頼朝が、平家打倒を進言した僧・文覚に命じて勧請したものです。

▲頼朝が奉納したと伝わる奥津宮の石鳥居

1192(建久3)年 、北条政子・義時の 父である北条時政 は、子孫繁栄を願って江の島の岩屋に参籠しました。すると、参籠21日目の夜に弁財天が現れ、時政の願いを叶えることを約束し、弁財天は大蛇となって3枚の鱗を残し海に消えてしまいました。
大蛇の鱗を拾った時政は旗に三角形を3つ並べ貼り付け「 三つ鱗(みつうろこ)」家紋と定めました。 この伝説から、江島神社の社紋は「三つ鱗」 にちなみ、三つ鱗を海の波で囲んだ「向かい波三つ鱗」とされ、随所で見ることができます。

▲武器などを持つ八臂(はっぴ)弁財天御尊像    ©️公益社団法人藤沢市観光協会

江戸庶民の憧れ「江の島詣(えのしまもうで)」

1600 (慶長5)年、徳川家康は息子で2代将軍となる秀忠の病気平癒祈願のために江島神社(当時は金亀山与願寺の「上之坊」「下之坊」「岩本坊」と呼ばれた)を参拝します。御神徳により病が治まったことから将軍家の祈願所と指定され、将軍や大奥、そして大名家までもが参拝するようになりました。
その人気は江戸の庶民に広がり、現在の伊勢原市にある大山阿夫利神社とともに江島神社を参拝する「大山・江島詣(おおやま・えのしまもうで)」が大ブームとなって、東海道五十三次などの作品で知られる歌川広重などによって浮世絵でも多く描かれるようになります。

▲歌川広重作「相州江の嶋弁才天開帳詣本宮岩屋の図」 

江の島に向かう浮世絵には多くの女性がが描かれていますが、江島詣が人気だった理由のひとつにこの女性の存在があります。

 現在、江島神社のご祭神は、奥津宮の多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、辺津宮の田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)という三姉妹の神様となっていますが、元々は、それぞれの宮に弁財天像が奉置されていました。
女神である弁財天は、勝運や幸福・財宝を招き、芸道上達などの身近な願いを叶えていただけることで庶民から篤く信仰されます。

当時は「女人禁制」という社会慣があり、禁足地とされた大山などいくつかの寺社は女性が参拝することができなかった一方で、江の島は禁足地とされず、女神を祀る女性を受け入れていました。

また、徒歩で旅する江戸時代には、江の島は江戸からの距離感と「入り鉄炮に出女」として女性の出入りを厳しく取り締まっていた箱根の関所の手前に位置する地理的条件も女性に人気があった理由でしょう。

やはり昔も今も「女子力」の高さは人気を左右する大きな鍵なんですよね。

▲琵琶を奏でる妙音(みょうおん)弁財天御尊像   ©️公益社団法人藤沢市観光協会

エドワード・モースとサムエル・コッキング

明治時代になると、江の島には日本人だけでなく外国人も訪れるようになります。大歴史の教科書に大森森貝塚の発見者として登場するエドワード・S・モース博士は、1877(明治10年)に江の島に東洋初の臨海実験所を開設し、シャミセンガイなどの海洋生物を研究しました。
その功績を記した記念碑が江の島入口の北緑地広場に設置されています。

▲北緑地公園に立つ記念碑にはエドワード・モースに学ぶ研究者の様子が描かれています。

江の島を訪ねる皆さんの多くが疑問にもたれるのが「江の島サムエル・コッキング苑」って何よ?ということでしょう。

サムエル・コッキングは1845(弘化2)年にイギリス領アイルランドで誕生、その後両親と一緒にオーストラリアへ移住するも、単身で英国に帰国しました。
1868(慶応3)年、同年から始まった旧幕府軍と新政府軍が戦う戊辰戦争による需要を当て込み、小砲やスナイダー小銃などの武器を仕入れ、日本へ向けて出港します。
ところが嵐に遭い沖を漂っていると、海図に「ノツチアアイルランド」して記された島の姿が目に入り、その美しさに魅了されます。
1871(明治4)、横浜居留地にコッキング商会を設立し、日本の美術骨董品、写真機材、医療品などの貿易で成功を収め、日本人の宮田リキと結婚します。
1880、1882(明治13・15)年、日本への渡航時に魅了された江の島の土地を二度に渡り、金亀山与願寺から購入、植物園を建設します。
この植物園には約200坪の温室を備え、温室はボイラーで焚かれたお湯によって温められていました。
この煉瓦造りの基礎が現在の遺構として見ることができます。

その後、コッキングは取引銀行の倒産により事業を縮小する一方で孤児を迎えた園遊会を実施するなど、地域の福祉活動に携わることになります。

歴史に「if」は無いと言われますが、もし、来日時に嵐に遭わす、江の島付近を漂流しなかったら現在の江の島はどのような姿になったのでしょうか。

▲サムエル・コッキング苑にはレンガ造りの温室遺構が保存されています。

▲温室遺構展示棟にはサムエル・コッキングを知るための資料やムービー放映を行っています。

▲明治時代の江の島の地図にも「植物園」として描かれています。

▲当時は木の橋を渡り、江の島へ向かっていました。

江の島の味と言えばこの味!「女夫饅頭」

江島神社の鳥居をくぐり、江の島の仲見世通りを進むと右手に位置する紀の国屋本店は1789(寛政元)年に旅籠として創業し、70年前には和菓子店になりました。
その70年前から味の変わらないお饅頭の餡は、機械を使用せず、今では大変珍しい職人の熟練された技術を駆使し手で練り上げているからこそ出せる味です。

今回、紀の国屋本店のご厚意により「江の島・鎌倉ナビ」の記事をご覧になりオーダーされた方に対し、5%OFFで会計していただけることになりました。
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【取材・文】岡林 渉

▲茶色は粒あんの蒸饅頭、白色はこしあんの酒饅頭です。